DANCE PASSION 

Japan Ballroom Dance Federation

【組織】 - 50年の歩み

Eastern Japan Division


()日本ボールルームダンス連盟東部総局

日本の競技ダンス史と東部総局の50

<<ダイジェスト>>

創立50周年記念舞踏晩餐会のプログラムより抜粋(一部リライト)

資料協力:伊藤喜六

 


1930

昭和05

日本ダンス界草創期の名指導者、玉置眞吉の下に“日本舞踏教師協会”が発足した。

1931

昭和06

東大卒の医師、池原南を会長とする英国流ダンスの技術研究団体“モダン・ウォルサーズ”や“葵クラブ”などが相次いで発足する一方、仏国流ダンスこそ最良とする目賀田綱美男爵、森潤三郎などを中心とした“清交社”が誕生。英国流対仏国流の大論争が巻き起こった。

1932

昭和07

赤坂フロリダにて“全日本アマチュア選手権”が開催された。技術研究団体は百花繚乱の様を呈し、文献をもとに技術の修得を図る“ブックダンス”時代は全盛期を迎えるが、白熱した競技風景はやがて戦争の足音の高まりの中に姿を消していった。

1947

昭和22

敗戦の混乱の続く中、池原南を会長に“日本社交舞踏教師協会”が発足。技術研究団体も相次いで活動を再開した。

1948

昭和23

銀座美松で戦後初となる競技会が開催された。この吉報の反面、この年に制定された風俗営業法(以下、風営法)により、ダンス教授所はその法の下に置かれることが決定。ダンス界は長い忍耐を強いられることとなった。

1950

昭和25

1020日、藤村浩作と関東の主な技術研究団体の長が話し合い、“日本舞踏競技連盟”(略称、日競連)を発足。初代会長に中山寿彦参議院議員を擁立した。

1951

昭和26

6月17日、日本舞踏競技連盟は初めて競技会を主催。“第1回全日本単科選手権”を見ようと、会場となった新橋フロリダには1,500人もの観衆がつめかけた。毛塚睦雄・野中桂子組がWQともに優勝。

11月に銀座美松で行われた後期大会ではカムバックした三桝良一・三桝静江組がFを、毛塚睦雄・野中桂子組がTを制した。

この年に岡本邦嗣を会長として“関西舞踏競技連盟”が誕生した。

1952

昭和27

東西の競技連盟が話し合い、日本舞踏競技連盟の下に、東部総局、西部総局としての組織統合が成立。日本舞踏競技連盟の副会長に藤村浩作、岡本邦嗣が就任した。東部総局局長としては日本舞踏競技連盟発足時より、実質的に吉田庄太郎が努めていた。

1955

昭和30

正式に毎日杯の冠が付いた“第5回全日本社交ダンス選手権”が後楽園アイスパレスで開催され、8,000人もの大観衆が見守る中、英国より招聘したレン=スクリプナー(全英チャンピオン)の単独審査によって、無名の新人、伴野八郎・四本恭子組が優勝。生で見るレン=スクリプナー組のデモの衝撃は大きく、ついに日本のブックダンス時代に幕が下ろされた。

この年に東部総局2代目局長として市川千秋が就任。

1956

昭和31

6月に“第1回サンケイ杯全日本選抜選手権”が開催(サンケイ杯全日本選抜選手権がスタ−ト)。ソニー=ビニックの単独審査により伴野八郎・四本恭子組が優勝を飾った。

1960

昭和35

東部総局3代目局長に原潔が就任。

1962

昭和37

メルボルンで開催された第4回世界選手権に日本舞踏競技連盟は初の代表団を派遣。桝岡肇・桝岡栄子組、丸山梅雄・田鶴子組、小嶋鉄治・小嶋滋美組、篠田学・篠田雅子組が参戦し、篠田学・篠田雅子組がモダン6位、ラテン7位に入賞。日本ダンス界は大きな喜びに沸いた。

1963

昭和38

東京都体育館で開催された“第13回全日本選手権”より正式にラテン部門が加わり、桝岡肇・桝岡栄子組が初代チャンピオンに輝いた。モダン部門の優勝は小嶋鉄治・小嶋滋美組。

この年桝岡肇・桝岡栄子組、篠田学・篠田雅子組は日本人として初めて全英選手権に参戦。

1964

昭和39

東部総局4代目局長に市村襄次が就任。

1965

昭和40

日本舞踏競技連盟はついに武道の殿堂、日本武道館での競技会開催を実現した。“第15回全日本選手権”では夢に見た大舞台を13,000人の大観衆が埋めた。モダン部門、ラテン部門ともに篠田学・篠田雅子組が優勝。英国留学から帰国したばかりの関真・関利子組が前年6位からモダン部門、ラテン部門ともに2位と大躍進。NHKのカラー放送も高視聴率を挙げた。

1966

昭和41

東部総局5代目局長に助川五郎(日本武道館での競技会開催の立役者の一人)が就任。

1967

昭和42

“第17回全日本選手権”(日本武道館)を三笠宮崇仁親王殿下が準決勝からご観戦。モダン部門は篠田学・篠田雅子組、ラテン部門は小嶋鉄治・小嶋滋美組が優勝。

1969

昭和44

待望の“世界選手権”を日本で開催。参加国は10カ国。日本代表は篠田学・篠田雅子組、小嶋鉄治・小嶋滋美組、斎野友次郎・松村有希子組、石原市三・石原佳代子組が参戦。篠田学・篠田雅子組がモダン部門5位でラテン部門3位、斎野友次郎・松村有希子組がモダン部門、ラテン部門ともに6位と大健闘した。

1970

昭和45

東部総局6代目局長に2代目局長の市川千秋が就任。

1972

昭和47

東部総局7代目局長に永吉彰が就任。

1974

昭和49

“第24回全日本選手権”(日本武道館)で、12歳以下の子供達による初の“ジュブナイルコンテスト”が行われ、ジュニア育成の夢が大きく広がった。

1975

昭和50

日本社会の欧米化を睨み、日本舞踏競技連盟は組織名を“日本競技ダンス連盟”と改称し、会長に藤村浩作を選出した。

この年に東部総局8代目局長として3代目局長の原潔が就任。

1977

昭和52

2回目の“世界選手権”(日本武道館)を開催。モダン部門は毛塚鉄雄・山本千恵子組が3位、田中忠・田中節子組が4位に入賞。ラテン部門はこの年に世界10ダンス選手権を制した鳥居弘忠・鳥居洋子組が3位、毛塚道雄・毛塚雅子組が6位と大活躍した。

1979

昭和54

長年親しまれたサンケイ杯がこの年をもって幕を閉じた。

1980

昭和55

<栄光へのステップ>“第1回日本インターナショナルダンス選手権”が日本武道館で華々しいスタートを切った。激戦を制したのはモダン部門が毛塚鉄雄・山本千恵子組、ラテン部門が鳥居弘忠・鳥居洋子組。

1981

昭和56

“第31回全日本選手権”(大阪府立体育館)は全日本単独では初となる2日間で開催。モダン部門は桜本和夫・桜本智美組が、ラテン部門は石原久嗣・石原由美子組がともに初優勝を飾った。

1982

昭和57

3回目の“世界選手権”を日本で開催。モダン部門で桜本和夫・桜本智美組が2位、中川勲・中川詠子組が6位と日本代表が大活躍した。

1984

昭和59

10月に“第1回スーパージャパンカップ”(日本武道館)を開催。モダン部門は桜本和夫・桜本智美組が、ラテン部門は玉置朝啓・玉置きよ子組が初代のチャンピオンに輝いた。

この年風営法が改正され、条件付きながら未成年者のダンス教室の立ち入りが認められた。

1986

昭和61

4回目の“世界選手権”(日本武道館)を開催。参加国は25カ国で出場選手は54組。日本代表はモダン部門で桜本和夫・桜本智美組、中川勲・中川詠子組、ラテン部門で奥村三郎・奥村純組、玉置朝啓・玉置きよ子組が出場。桜本和夫・桜本智美組が4位、中川勲・中川詠子組が6位、玉置朝啓・玉置きよ子組が5位に入賞。決勝入りを逃した奥村三郎・奥村純組は、併催の全日本選手権で玉置朝啓・玉置きよ子組を破り、全日本選手権2連覇を果たした。

この年に東部総局9代目局長として毛塚睦雄が就任。

1989

平成元年

日本競技ダンス連盟3代目会長に斉藤正吾が就任。

東部総局10代目局長に桝岡肇が就任。

1990

平成02

5回目の“世界選手権”(日本武道館)を開催。モダン部門はヒルトン組とウッド組の一歩も譲らぬ熱戦に会場は興奮のるつぼと化した。ラテン部門はバーンズ組が圧勝。日本代表もモダン部門で篠田忠・篠田富子組が3位、天野博文・天野京子組が6位と大奮闘。

1992

平成04

3月24日に“財団法人日本ボールルームダンス連盟”(JBDF)を発足。初代会長は林健太郎が就任。日本競技ダンス連盟は文部省を主務官庁とするダンス界唯一の公益法人として新たな船出を迎えた。

1993

平成05

財団法人日本ボールルームダンス連盟が全国各地で進めるジュニアスクールの開校も追い風となり“第14回日本インターナショナルダンス選手権”に待望の“ジュブナイル選手権”が新設され、23組が出場。静岡県の兄妹ペア、石ヶ谷幸暁・石ヶ谷珠永組がモダン部門、ラテン部門ともに優勝を飾った。

1995

平成07

“第15回日本インターナショナルダンス選手権”に“ジュニア選手権”が新設された。モダン部門は東京都の豊浦まどか・豊浦仁美組、ラテン部門は岩手県の川原昭久・九市美幸組が初代チャンピオンに輝いた。

1996

平成08

東部総局は日本武道館に匹敵するダンス競技会の会場を求め、この年より“スーパージャパンカップダンス”の会場を幕張メッセに移した。海外選手を招聘しての“車いすダンス国際招待競技会”(主催が現在の日本車いすダンススポーツ連盟)を併催し、大きな感動と話題を呼んだ。

1997

平成09

国会内に“ダンススポーツ推進議員連盟”(島村宜伸会長)が発足。

ダンス界は風営法改正を求める3万人の署名簿を添えた請願書を提出。

この年に東部総局11代目局長として植木盛司が就任。

1998

平成10

1月にJBDFプロ選手会も風営法改正を求める請願書を提出。

4月についにダンス教室の適用除外を盛り込んだ風営法改正法案が成立した。

1999

平成11

伝統の“全日本ダンス選手権”はこの年の第49回大会をもってプロ部門の改称を決定。

2000

平成12

“スーパージャパンカップダンス”に2つのプレイベント“コングレス”、“大舞踏会”を新設。3,000人の愛好家で大舞踏会は大盛況。

前年までの全日本ダンス選手権のプロ部門はこの年から“JBDFプロフェッショナルダンス選手権”に改称された。

2月にJBDFJDCJCFの3団体で協議機関“日本プロダンス協議会”が発足。11月3日に初の“統一全日本ダンス選手権”(主催は日本プロダンス協議会)が開催され、モダン部門は檜山浩治・檜山公美子組(JBDF東部総局)、ラテン部門は北條明・須田雅美組(JBDF東部総局)が初代チャンピオンに輝いた。

2002

平成14

財団法人日本ボールルームダンス連盟2代目会長に三角哲生が就任。“ダンス文化構築”へ向け、JBDFが取り組む諸事業に対し東部総局も一丸となって邁進。

 

50年の歩み
(PDF v4.0)